海外行ったら価値観めっちゃ変わるんじゃないか幻想|7月10日(月)

フィジーに来てから、ZOOMで日本にいる人と話す機会が何回かあった。友だちとではなく、初対面の人や、これからフィジーに来てくれる人たちだ。

その人たちからよく、「なぜフィジーにいるのか」とか「フィジーに来て1番驚いたことはなにか」とか「フィジーに来て1番変わった価値観はなにか」とか聞かれる。

自分も確かに、強度の高い経験をしているな~って人に対して、そういうことを質問してしまうと思う。

だが、日々感じていることを改めて総括し、言葉にするのは、すごく難しい。

自分が伝えたいことなんて半分も伝わってないんじゃないかとも思う。

自分が経験した感触を、自分の言葉だけで伝えられるわけがない。

聞いてる側なんて他人事だしそれほど本気で聞いていないかもしれない。それでも、言葉にしようと努力はする。できるだけ伝わってほしい。理解されない怖さも感じながら、精一杯。だから脳がヒートアップして、喋り終わったら熱みたいになっている時がたまにある。

そういう質問に受け答えしているうちに思ったことがある。海外に行くことで、なにか劇的な価値観の変化とか、一回り強くなるとかっていう期待が、全員の中にあるんじゃないかっていうこと。

海外に行けば変化をするに決まっている、という前提があるのではないかと。

たしかに自分もそう思っていた節がある。海外に行くということは、自分自身が圧倒的に成長するとか、強くなるとか、そういう経験をするということなのだろうなと。たくさんの人がそうやって海外に行くのだろうし、これから海外に行きたい人も、それを渇望している人たちなんだろうと思う。

けど、海外に来て1ヶ月ちょっと経って分かったのは、別に自分が大きく変わる訳ではないということ。

なんかこれって誰の背中も押さなくね?という言葉で申し訳ない。けど正直そう。

日本とは全く違う環境に来て、日本で考えていたこととか習慣が、自分の内から湧き出ていたものではなく、環境によって規定されていたものだと身をもって気づく。

だからフィジー人が美味しくないkavaを飲んでいても、タロイモばっかり食べていても、良く分からない音楽ばかり聞いていても、理解はできる。環境によるものだから。自分が好きな食とか音楽とか、こういう人とは合わないとか、当たり前ではない。

だからそこに何も優劣はなく、どんなに自分と違うと思っても、そりゃそうだよねと思えるようになる。

自分の内面にあると思っていた価値観は、実は今まで生きてきた環境によって外側に付けられてきたものでしかなかった。それが、どんどん削ぎ落とされていく感覚。

だけど、それでももう1回、自分の価値観やこだわりを身につける。自分のそれが削ぎ落とされ得るものであると理解している上で。削ぎ落として、そのままにしない。

やっぱりこれは、自分のものだと、自分の感覚だと、素直に身につけ直す。

自分の好きとか嫌いはそのままで、変わらなくていい。22年間で身につけられたそれが、海外に来て大転換してしまう方が怖くないか?

一周回って、なにも変わらない。身をもって自分が当たり前では無いことに気づいて、それでもやっぱり好きなものは好きで嫌いなものは嫌いなままで別いい。

でもそうやって一周回って同じ結果になろうとも、その経験を経ているか経ていないかが、自分への納得感の差になるんじゃないかな。

別に海外に行ったって自分は大きく変わらないんだ。「それでもやっぱり私は」と、前より少し自信を持って自分のこだわりを喋れるようになるくらいかもしれない。

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