フィジーではインド系フィジー人が人口の3〜4割を占めている。彼らはフィジー経済を回している裏の立役者で、技術職や専門職についている人も多い。
民族でこれほどまでに働き方、生き方が違うのも、インド人は勤勉だからとかそういう類いの話ではない。社会が、インド人を働かせる構造になっているのだ。
しかし実際、インド人はたくさん働いてたくさんのものを得ている。名声も地位も、高級車も、飼い犬も、家から見える絶景も。フィジー系の人びとが住む外と内が曖昧な家からは想像もできないほど、大きな家もある。
何週間か前、インド系フィジー人のあるご家庭に一泊させてもらった。前回お話ししたホームステイ先とは別の方。ご夫婦と高校生の娘さんがいる3人家族。夫は保険会社、妻は薬局で働いている。
とても優しいご家庭だった。夫の方はYoutubeが流れた画質のいいテレビの前に立って、フィジーに存在するヒンドゥー教徒が織りなす伝統を、熱心に教えてくれる。
とはいっても彼はキリスト教徒で、それがまたフィジーのカオスさをよく表している。
その人から興味深い話が出てきた。「僕らインド人とフィジー人の間には大きな違いがある」ということ。それが「今のことしか考えていないか、未来をしっかり考えているか」ということだった。
この話がどの文脈から派生してきたのかも、なぜこの話をされたのかも覚えていない。
しかし、強烈に印象に残っている。
なぜなら、多分それが「フィジーは世界一幸福な国である」という事実を成り立たせていながらも、インド人の自殺率が高い理由でもあると思ったからだ。
どういうことか。
彼が話していた話はこうだった。
「フィジー人は、今しか考えていない。もし思いつきでアイスが食べたいと思ったら、その場でコーン付きのアイスを買ってしまうんだ。」
「しかし、これでは単価が高くつく。インド人の特徴は、安いときに大量買いをし、ストックを作って将来に備えるというところ。」
「そうやってお金を物に変換しておくか、保険に入って預けておく。それで自分が働けなくなったときにそのお金をもらって生活するんだ。」
「こうしておけば自分の身に万が一のことが起こって娘がひとりになってしまっても、そのお金があればなんとか生きていけるはず。」
「僕たちは子どものためにも10年後、30年後の未来まで考えている。」
「ここがフィジー人と僕たちインド人の大きな違いだ。」
まるでフィジー人と違って自分たちは賢く生きているんだと言われているみたいだった。そして良くも悪くも日本にいる人たちと同じような考え方だった。未来への責任とリスクを見越して守りに入るその言動。
「フィジー人は今しか考えていない。」
しかしこれは、今を一生懸命生きているということでもある。今その瞬間を生きられたら、そもそも未来への不安もないだろう。
日本に住む私たちも、インド人も、未来を見据えて生きている。それを考えて生きざるを得ない私たちができないこと、それがただひたすらに今を生きること、なのだと思う。
今を生きているから、今が楽しい。国の半数以上を占めるフィジー系フィジー人がそうやって生きている。それがフィジーが世界一幸福な国である所以だろう。
なのにインド人の自殺が多いのは、こうやって未来を考え責任を負っているうちに、思い詰めてしまう人が少なからずいるからだろう。
社会の構造が働き方を決め、働き方が生き方を決めているのか。
未来を考えることはときに希望であり、絶望である。